妻が浮気してほかの男性の子を妊娠・出産したが、その子の父親は夫である私だ。の件 その2

妻が浮気してほかの男性の子を妊娠・出産したが、その子の父親は夫である私だ。の件
の続きです。
FNNニュースのほうが詳しい報道をしておりました。
http://www.youtube.com/watch?v=7JF5P8o3POo&list=PL6A55103C112EE926&feature=share&index=76
平成21年(2009年)に出生した女の子を巡っての裁判です。
報道によりますと、事実経過は次のとおりとなっております。
平成21年 女の子出生。出生届提出。女の子の名前は父親がつけた。
実は、妻は夫以外の男性(仮にAさんとする)と交際していた。
DNA鑑定をしたところ、女の子は99.99パーセントAさんの子であるとの結果がでた。
その後、夫と妻は離婚し、妻が女の子の法定代理人として、夫と女の子の親子関係の取り消しを求める訴えを提起した。
第一審旭川家裁、第二審札幌高裁ともに、DNA鑑定の結果に基づき、夫と女の子の親子関係を取り消す旨の判決をした。
それに対し、夫は、「父と子の関係は取り消せない」と最高裁判所に上告した(最高裁判所の判決言渡しは平成26年7月17日の予定)。
現在、妻はAさんと同居生活を送っている。

ここで問題となっているのは、民法の次の条文です。
民法772条1項
妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。

「推定する」というのがポイントですね。
妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と「する」。
ではないのです。
あくまで「推定する」なのです。

どういうことか?
この条文は明治時代に制定されたものがそのまま生き残った形となっておりまして、
当たり前ですが、むかしはDNA鑑定などというものは存在しておらず、
妻が妊娠した子は、妻が浮気をしていれば夫以外の男との間との子である可能性は当然排除できるものではないのですが、
そんなことをいっていたら、じゃあ誰の子にするの?というわけでルールを決めておく必要があることから、
まあ、妻が婚姻期間中に妊娠したのであればそれはおそらく夫の子である可能性が最も高いだろう、大半のケースではそうだよね、ということで、妻が婚姻期間中に妊娠した子は、夫の子と推定しようね、ということにしたという条文です。
もちろん、他の男性の子である可能性はゼロではないので、あくまで「夫の子と推定する」にとどめて、「夫の子とする」という規定にはしないでおこうという判断があったのだと思われます。

では条文が、「夫の子とする」ではなく、「夫の子と推定する」となっていることからどのような問題が生じるのでしょうか。
端的にいうと、実は夫の子ではないのだ!と争う余地がでてくるということです。
条文が「夫の子とする」という文言であった場合、夫や妻が、いやいや本当は夫の子ではないのだよ、別の男との間の子なのだよ、本人たちも認めているよ、証拠もあるのだよ、といってもそのような訴え自体認められない可能性があるのです(絶対認められないとは言い切れないところが、法律というもののあいまいさ、条文解釈の幅広さ、奥の深さといいますか、いい加減なところであります。)

民法772条1項の「夫の子と推定する」という文言を受けて(あくまで「推定する」にとどまる。)、夫の側からその推定を覆すための訴えが認められています。いわゆる嫡出否認の訴えと呼ばれるものです。
民法774条
第772条の場合において、夫は、子が嫡出であることを否認することができる。
夫側からしたら、妻の浮気相手の男性の子が自分の子と扱われてはいやだ、困る、という心情になるのもある意味わかる気がしますよね。
私とこの子とは親子関係がないんです、そのことをはっきりさせてください、という夫側の要望を満たすための条文も用意されているというわけです。

ここで面白いといっては語弊がありますが、これらの条文をみると、法律・裁判があくまで真実絶対主義ではないということがわかります。
「真実(truth)」でないことを不問に付すこともあるといいますか。
「真実(truth)」ではないけれども、誰もそれを問題視していないのであれば、国家もそれについては余計な介入はしない態度、といいますか。
わかりにくいですか。

上の例でいうと、夫が、生まれてきた子が自分の子ではないよ、妻と浮気相手の男性の子なんだよ、だからこの子は私の子ではないんですよ、ということを認めさせるための条文が774条です。その前提として、妻が出産した子が、本当に夫との性交渉の末に懐胎した子なのか、実は夫以外の男性との性交渉の末に懐胎した子なのか、神のみぞ知る(というか妻は分かっている可能性がある)というわけで、でもそれじゃあ、法制度上、誰の子と扱ってよいのか定まらないのは困るというわけで、「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」と規定する772条1項の存在があります。

わかりますか。
772条1項というものは、この子が本当に夫の子かどうかわからないけれども「夫の子と推定する」としてしまっているのです。
「真実(truth)」がどうであろうと、とにかく、とりあえず、「夫の子」として「扱ってしまう」ということなのです。
つまり法は「真実(truth)」を絶対視していない。
そして、774条というものは、もしこの子が本当は自分の子ではないとするのであれば、自分の子でないこと(=真実(truth)を裁判ではっきり確定させてくださいという夫の願いをかなえるための条文です。つまり、夫の側からしたら「真実(truth)」を取り戻すための手段です。

ここで
え、なんだよ~、結局、「真実(truth)」を取り戻す条文(774条)が用意されているんじゃん。
それならばやはり法律・裁判が「真実(truth)」を最重要視していることにかわりはないのでは??
なんて疑問をもたれたあなた。スルドイです。

しかし、しかしです。
もし妻が出産した子がどうも自分の子ではないと気づいてしまった夫(DNA鑑定をした場合であっても、そこまでしていなくても明らかに性交渉していないのに妻が妊娠・出産したらどれだけ鈍感な夫でも自分の子ではないと分かる)がですね、それでもまあいいかと現状追認する決意を固めて、何も声をあげなかった場合はでどうでしょう。

772条1項の規定そのままに、生まれた子は「夫の子と推定」され続けて、法律上の親子関係は維持されたままとなります。
仮に、DNA鑑定までやって血縁上の親子関係がないことがほぼ確実であっても、夫が裁判に訴えなければそのままとなります。
わざわざ誰も公表しないので、ニュースになることもありませんが、このようなケースって意外とあるかもしれないな、と疑っております(性格悪いですか)。
この子が私の子である!!という強い確信は、出産をしない「男」よりも、まさに子を産む「女」のほうがもちやすい面があると思います。母であることの揺るぎない自信と言いますか、だからこそ母は偉大であり、子にとってかけがえのない存在であるという。
少し意味は違いますが、この子は誰との間であるという確信も、実は、「男」よりも「女」のほうがもちやすいですよね。といいますか、厳密な意味で言うと、「男」は絶対的確信をもつことはできないのではないでしょうか。「女」は夫以外の男性と性交渉していない限り、生まれてきた子が「夫」との間の子であると確信をもてますし、その確信は「真実(truth)」であると断言できる立場にありますが、「男」は、自分が妻以外の女性と性交渉していなくても、妻が夫以外の男性と性交渉していれば、生まれてきた子が自分(夫)の子でない可能性を排除できませんし、それゆえ、生まれてきた子が本当に妻が自分(夫)との性交渉の末、妊娠、出産しいた子であると信じるのは自由ですが、それを「真実(truth)」と断言できる立場にないのです。

夫の子ではない可能性を自覚しつつ出産に及ぶ女(本事例を想定した話ではありませんのであしからず)。
そうとは知らず出生を喜び、わが子と信じて養育していた男(本事例を想定した話ではありませんのであしからず)。
ここに性差のドラマを見る思いがするのは、私だけでしょうか。

さて話を本事例に戻します。
このケースで、夫は、妻が出生した子が夫以外の男性との間の子であるとわかっているにもかかわらず、774条の嫡出否認の訴えを起こすどころか、むしろ、1年半愛情をもって育てたこの子と自分との親子関係は維持されるべきであると主張し続けているというのがポイントです。そこで元妻の側から、お願いだから親子関係ないことをはっきりさせてほしいということで本件裁判が起こされているという経過です。

子にとってはどのような判断がいいのでしょうね。

夫の気持ちも分かるような気もしますが、一方で、夫婦はすでに離婚しているのだし、元妻が、女の子にとっての生物学的父と同居生活をしている現状(おそらく女の子もこちらで居住している?)では、夫との関係は(血縁関係がない以上)スパッと切り離して、血縁関係のある男(女の子にとっての生物学的父)との間で、法律上の親子関係を築いてあげたほうが、女の子の成育上も、混乱がなくてよいような気もします。
本事例は、774条が想定するケースとも異なり、また、妻の側から(女の子を代理してという体裁だとしても)訴えを提起せざるをえなくなったという経過上も、ニュース的価値、判断の社会的意義が極めて高いといえるでしょう。

旭川家裁と札幌高裁は、
・772条1項は、あくまで「夫の子と推定する」ものにすぎない。
・「夫」だったという一点をもって法律上の親子関係を維持すべき理由はない。
・夫の子ではない別の証拠(本件ではDNA鑑定の結果)があれば、その推定は排除される。
という価値判断をしたものだと思われます。

さて、最高裁判所はどのような判断を下すのでしょうか。
「法律上の親子」=「血縁上の親子」という等式がなりたつのであれば、夫の主張が認められることはないでしょうが、「法律上の親子」の概念を「血縁上の親子」の概念に止まらない、それを含むような広い概念と定義づけるのであれば、夫の主張が認められる(反面妻側の言い分が排斥される)可能性があります。
このような価値創造的なところが最高裁判所に期待されている最高の役割なのですがさて。
7月17日の判決を待ちたいと思います。

私の予測(あたるかはずれるか一応書いておく)
基本的にこれまでの判断を維持するのではないか。
夫の気持ち(どうしてくれるこの子に抱いてしまったこの愛情、それを喪うことの苦しさどうしてくれる)については、妻に対する慰謝料請求(夫以外の男性の子かもしれないのにそれを告げずにいたという事情があれば)で決着をつけるべきということになるのではないか(判決文ではこんなことは書かないかもしれないけど、密室の会議室ではこの点(夫の気持ち)も議論されであろうたぶん)。
判断理由としては、DNA鑑定の結果を無視してまで「親子」であるとするのは(養子ではないのだから)「親子」概念の混乱を招く、条文上もDNA鑑定を想定していない明治時代のもので、772条1項の文言は「夫の子と推定する」と規定するにとどまり、「夫の子とする」「夫の子とみなす」という規定ではないのであるから、反証可能(反する証拠がでてくればその証拠に基づく主張も可能)であるはずだ、というところなのではないか(すみません、まだみていないのですが、あとでみてみますが(文献があれば。たぶんある)、旭川家裁と札幌高裁もおそらくこのような理由をあげているはず)

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